つづきものです。すごーくお時間がある方は↓からどうぞ。
前身
前回の「会社の話2」では、タケがヤマハの『ライト・ミュージック』の編集者さんに紹介されて、ジョニーさんに会いに行った話をした。
当時ジョニーさんが所属していたのはアメリカ企業MCA(注1)の子会社で音楽出版社。「レヴュー・ジャパン」と称した。(『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』p.35)
(注1)
ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(Music Corporation of America, MCA)はアメリカ合衆国の娯楽企業。元々は1924年にシカゴに設立されたタレント事務所だが、その後、MCAレコードやユニバーサル映画を傘下に持つ総合メディア企業に転身した。(「ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ」Wikipedia 閲覧日:2018/09/02)
ジョニーさんはその会社の「ナンバー・2」だった。しかし「支社長の荒家さんをいれて3人くらいしかいなかった」とか。当時の日本では、作詞家、作曲家などの音楽関係の作家は専属ではなく、フリーで活動していた模様。そのような状況下で、レヴュー・ジャパンでは、作家の専属契約や、新人作家を育てることを目指していた。その作家の第一号が樋口康雄さん。(『永遠の』pp.35-39)
ジョニーさんがレヴュー・ジャパンで仕事をする前年の話だと思うけれど、樋口さんは「1971年12月、日本人として初めて米国MCAとポピュラー音楽のアレンジャーとして専属作家契約を交わ」した人としてWikipediaに記載されている。(「樋口康雄」Wikipedia 閲覧日:2018/09/02)
ちなみに、樋口さんは、後年、『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(1980)の音楽を担当する。その映画制作に携わったのが(株)マジック・カプセルの明田川進さん。
うーん、なんかつながってる……。(。・・。)
始動
レヴュー・ジャパンが日本型音楽業界にある従来の制度に失望し、突破口を模索していたころのこと。
73年春、タイミング良くやって来たのが20歳のタケである。(『永遠の~』p.43)
そしてタケは作曲家として専属契約を結ぶ。駆け出し作曲家にとっては好条件だった。アドバンス(お金)の詳細は『タッタ君ふたたび 下』収録、著者による「30年後の一言」(pp.278-283)でご確認ください。
そして、米国から帰ってきたミッキーとも作家契約が結ばれ、ここにゴダイゴの胎動が始まる。
急転
この当時のレコードリリースに注目するだけで、どれだけ精力的に活動してきたのかよく分かる。
時系列で並べてみよう。
注:「」はシングル、『』はアルバムを表す。また、括弧内は『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』の頁数。
【タケ名義】(出典:. "タケカワユキヒデ." Wikipedia. 閲覧日:2018/09/02)
1975年
- 01/01 「走り去るロマン」/「 夜の都会」
- 01/25『走り去るロマン』
*1975年の1月から3ヶ月ぐらい練習をやって、ミッキーらとともに『走り去るロマン』のプロモーションツアーで、全国9カ所をまわる。この時の名義は「タケカワ・ユキヒデ&ミッキー・吉野グループ」( p.67 )
- 04/01 「いつもふたり」/「白い小鳥」
- 11/10 「アンクル・ジョン」/「スマイル」
【ゴダイゴ名義】(出典:ゴダイゴ Official Website、 ”WORK” 、閲覧日:2018/09/02)
1976年
- 04/01「僕のサラダガール」/「イエロー・センターライン」
*04/06 @日比谷野音 「タケカワ・ユキヒデ&ミッキー・吉野グループ」が「人前で新しくゴダイゴとしておめみえ。/このときが、ゴダイゴとしての初デヴュー。」(p.70)
- 07/25『新創世紀』発売
- 10/01「いろはの"い"」/「警察のテーマ」
- 11/26『いろはの"い"』
1977年
- 05/01「シンフォニカ」/「ナウ・ユア・デイズ」
- 06/01「ハウスのふたり〜ハウス・愛のテーマ〜」/「ハウスのテーマ」
- 06/25『ハウス』
- 09/01「君は恋のチェリー」/「イエス・アイ・サンキュー」
- 11/01 『DEAD END』
- 12/10「ミラージュのテーマ」/「水滸伝のテーマ」
それを機に、ジョニーさん自ら引き続きゴダイゴのマネージメントをするために会社を設立した。
だから、社名を「(株)ゴダイゴ」にしたんだね。
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